「華道玄解」荒木白鳳著 閲覧31 2022年11月のコラム
11月は京都も錦秋の彩りで人々の目も心も癒やしてくれます。修学院離宮、桂離宮そして多くのお寺や神社が自然の美を今も残して京都らしさを演出してくれます。「五感で感じる」という言葉が似合うのも爽やかな風が流れるこの季節です。春には春でしか感じない健やかな美があり、当然四季折々の美が五感に訴えてくることは多くありますが、これは四季折々の美を感じることの出来る日本人独特の感性ではないでしょうか。
桃の節句の菱餅は、春の日差しを思います。残雪を連想して白いお餅、その雪の下には新芽の母子草で緑のお餅、そして残雪の上にはすっと伸びる桃の花を思い桃色のお餅。三段重ねの菱餅の色にも色んな思いが込められています。自然崇拝というべきか、自然への感謝が成せる習慣ではないでしょうか。
特に、春は進む時節で、気候も人も植物も全てが前向きに進む時でもありますが、進むために必要な物は秋から冬にかけての準備期間です。何事においても必要なのは準備です。ともすれば忘れ去られがちな準備は自然と生活の中に溶け込んでいます。たまに準備を怠ってしまったことで取り返しが付かないこともありますが、大抵はその場逃れで済ませることが出来てしまい、責任を逃れることも平然と出来てしまい悪循環です。
植物は春に芽生え、夏に盛んとなり、秋に結実して春の準備に入り、冬に化して土に帰り春を待つという季節の繰り返しをいきています。多くを望まず、自然に耐え、ある時は喜び、自分に必要な物を求めますが余分な物は求めません。ただ一日一日を自分の世界で活きています。だから花なのです。
いけばなでは「花の心と向き合う」ことをよく言われますが、花は美しくいきる事だけを求めているのではないこともしっかり感じ取って頂きたく思います。華道玄解がいわんとするところは、五行の五常、「信義智」で生きてはいきますが、人の基本である「仁」と「礼」をおろそかにすることはあってはならないということを知らしめているように思います。
「仁」は無形である事を知ることは少々難しいですが、大切であり必要なことだと思います。また、「礼」は有形でもあり無形でもある。この世に生を得てまず学ばなくてはならないことが「礼」ですが、時代相応に変化するものです。純心無垢な幼年期から進む一歩目が礼であり仁であり、民衆に流されず、世評に流されず、特に欲に流されず生きることが花と向き合うことになります。しかし、欲がなければ進まないですし、欲がなければ発展もしません。言葉とは勝手な物で難しいですね。
さて、難しいことにふたをせず、今回のコラムでも「華道玄解」を閲論していきます。先月は、『妙空紫雲の卷參考資料』の『妙空紫雲』それぞれの字の意味を説かれている所を読みましたので今月はその続きを読み進めていきたいと思います。
“雲に色像なしと雖も他の緣に倚つて。種々の色相を化作す、世人其の皮相を見て。或は白雲と謂ふあり。若は黄若は赤。若は青。若は紫雲なりと謂有り。亦學人雲相を邪見して氣象と謂ふ氣の性に形色なし。然りと雖も萬物と和合して。全土の充満す、豈空中のみに處すべきに非ず。故に氣性有に非ず。無に非ず。行に非ず住に非ず、進に非ず退に非ず、香に非ず無香に非ず、氣は是れ萬物の本体にし萬物は氣の化現なり。若し萬物より氣を脱離すれば存在する事能はず。氣も存す事なし。氣は物と必ず共立す。氣は是れ萬物の根性なり。氣は是れ妙なり。氣は是れ空なり。物は則質性和合して形体を爲す。故に形は實相なし。形は則外相なり。色なり。果なり。氣は内相なり。心作なり。種子なり。因なり。因縁和合に依て形体を爲す。譬へば人に貧富の定相なく。面貌に喜愁の定相なきが如し。本來定相なしと雖も心作の病根。喜怒哀樂の色相を現し。善悪の宿命、貧富の相を露し。謹進。怠随。の兩因秀劣の相を現し。智鈍の相を現す。人相又鏡の如し。種因に倚るが故に萬相を化現す。若し種因を斷ずれば鏡中影なきが如し。例へば極重惡人。若し囚人となる時。其面貌怒りの色を成し。或愁苦の色を現すと雖も。若し罪定り形を果す時は努色愁色散じて喜びの色を現す。亦富裕乃人常に喜色。円満の相を成すと雖も。若し非常の災害に遭ひ。其所得の産を失ふ時は。忽ち愁苦の色を表す。亦面貌常に花の如き美男美女も。病時に美色無きが如し。餘の相貌の變易する事皆如是。人体の外相に善悪の定相なしと雖も。心作の内相外の体に倚つて善意の諸作を行す。心相は住む人の如し、体相は舎宅の如し。心相は幹の如し。身相は枝葉の如し。心は根質にして。体は外色なり。然るに衆皆此の外相に迷着して。内相を忘失す。外相の所作を賞罰して。内の諸作を賞罰せず人の悪を行ふ時は先に心に惡を發し。然る後身に倚つて此の惡を行ふ。善も如是。然らば此の惡を行ふ者心が主犯にして。身は従なり。心の使命を受け行ふるが如し。善も亦如是。然るに此善悪の所作露見する時に。主たり幹たる心に賞罰行はれずして、使たり枝葉たる身に賞罰を行ふ。人我の小法常に煊等する顚倒する事是の如し。“
あまり長くなっても解釈に手間取り、肝心の文章から心が一人歩きしそうですので今月はここまでにしておきます。味わい深い文章で、つい想像を巡らせてしまいますが、時代の違いもあり鵜呑みに出来る部分とそうで無いところもあります。ここは皆様の寛大なる心でこの時代に合うように解釈して頂きたく思います。
要は、いけばなは形から学ぶものと、思想の捉え方、考え方から学ぶものとがあります。このどちらも人倫の道を学ぶ為のものと考えて頂ければと思います。池坊専永はいけばなについて次のように話しています。
「今日、いけばなを習っている人達は、意識するとしないとに関わらず、日本のいけばなの伝統によって影響されていることは否定できない」。
まさにこの通りで、日本の文化自体が日本人独特の感性によるものであり、どの時代も伝統が次代の文化を継承していくことだと思います。
次回は、『妙空紫雲の卷參考資料』から『妙空紫雲』の続きを閲覧します。錦秋の秋、清秋の秋、そして秋雨の秋。この秋の雨はぐっと気温を下げます。朝晩の気温の変化に負けないような体調管理が必要です。今年も五感で感じる秋を体験して下さい。
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